南の果てに廃村があった  (2009年小笠原紀行5)

父島に着いた翌朝7時30分の船「ははじま丸」で母島へ向かう。
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母島は、父島の南約50キロ。ははじま丸で2時間10分である。

「ホエールライナー」などと書かれているが、ホエールは全く見れなかった。

というより、うねりがきつくて激しく揺れる。波の高さ4mの波浪注意報下の航海である。
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本当にホエールが見えることもあるそうだが、デッキに立って見ていても、水しぶきを浴びるだけであった。

母島着。
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人口は440人ほど。東京都最南端の集落である。といっても、緯度は沖縄本島くらいだから、そんなに南というわけでもない。硫黄島などがさらに南にあり、自衛隊員などが住んでいるが、一般人の集落はない。

母島についたはいいが、することがない。レンタルバイクでまわろうとしたのだが、すべて貸し出し中とか。ゴールデンウィークだもんなあ。

ちょうど、島内観光ツアーが出るところだったので、混ぜてもらった。

まず、桑の木山へ。ここは「アカギ」という外来種の木が生えまくっているところ。小笠原の固有種を圧迫しているので、なんとかこれを退治しようとしているそうなのだが、生命力が強い木なので、大変な様子。切るだけではダメで、枯らさないといけないのだが、なかなか枯れないそうだ。
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みにくいかも知れないが、切っても、切り株からまた芽が生えてくるのである。不死身である。ちょっとうらやましい。

母島北端の北村。
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ここは、戦前は集落があったそうだが、現在は無人になっている。写真はメインストリートで、この両側に家が並んでいた。しかし、現在は、鬱蒼とした林に覆われて、ここに村があったことは想像できない。

当時の写真。
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中央に見える道が、上の「メインストリート」。
これだけ家が建ち並んでいたのである。村役場や旅館まであった。

それなのに、いまは雑木林で足も踏み入れられない。戦時中に強制疎開が行われ、住民は全員本土に。小笠原返還後、数世帯が戻ってきたが、不便すぎて結局離村したという。

現在、確認できる遺構は、この桟橋と、北村小学校の跡地くらいである。
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北村からは、本土への直行便もあったそうな。この桟橋は、戦前使われていたもの。さすがに、ここには外洋船は付けないから、はしけを用いたものと思われる。
下は北村小学校跡。石垣がはっきり残る。
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内部には、グランド跡地や、建物の土台の一部が残されている。しかし、土台も失われている部分が多いようで、どんな建物だったかなどは想像できない。たった数十年で、町や建物はここまで「遺跡化」するのかと、正直驚いた。

砲台跡。太平洋戦争時には、米軍の上陸に備えて、多くの砲台が設置された。父島も同様である。ただ、硫黄島と違い、父島母島では戦闘は起こらなかったので、エピソードはない。なので、あまり興味を引かない。
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最後に、現在の母島の集落のメインストリート。父島と違い、かなり鄙びている。しかし、人口440人の割には、明るく活気がある。若い住人が多いのがその理由だろう。
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若い住民が多いのは、老人が少ないことの裏返しである。
医療設備がしっかりしていないので、老人には住みにくそうだ。

現在この島に医師は1人。内科などは常時診療だが、耳鼻科や眼科は年2回、整形外科は年1回しか診療がないそうな。

老人とは関係ないが、出産も本土にいかないといけないとか。産前3ヶ月はおがさわら丸に乗れないので、つまり出産前から産後まで、数ヶ月に渡り本土にいないといけないらしい。若い住人が多い島なのに、これはつらいかも。

まあそれでも、旅人の目からしたら、もう一度来たいと思う島でした。

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