吉川英治の『三国志』に熱中した方は多いだろう。かくいう自分も、中学時代にのめりこんだ。父にせがんで、全八巻を買って貰ったのを、いまも覚えている。
当時は、それこそ、本が破れそうなくらい再読した。高校時代まで、何度も読んだと思う。全編を読み通すこともあったし、気に入った部分を何度も読んだこともあった。
当時のお気に入りは、赤壁の後、劉備が荊州を取って以降、孔明が五丈原で死ぬまである。劉備が亡くなる部分は、涙しながら何度も読んだ。
さて、その『三国志』を久しぶりに再読した。Kindleで見つけたので、ダウンロードして読み始めたら止まらない。おもしろい。

ただ、面白いのだけれど、どうも、昔、熱中していた部分に、今はのめりこめない。
孔明の出廬あたりまではいいし、劉備が荊州を奪うまでも面白いのだけれど、その後、龐統が死んだり、関羽が死んだりする場面は、読み飛ばしてしまった。
劉備が孔明に遺子を託す場面も、読んでいられない。基本的に、贔屓の武将が死んでしまう場面は、つらくて読めないのである。
中高生の時代は、そんなことなかった。関羽が麦城に立て籠もり死ぬ部分など、何度読んだことだろうか。
いま思うが、死が身近でなかったからだと思う。
自分も50歳が近くなり、身の回りや知人に死ぬ人が増えてきた。死が身近になったため、贔屓の人物が死ぬシーンを、読むのがつらくなってきた。だから、関羽が討たれる場面など、気が滅入って読めないのである。
逆に、若いときには、あまり面白いと思わなかった前半が面白い。
その理由もわかる。登場人物が若いからである。
劉備や関羽や張飛に、この後、何が起こるかわかっているのに、読んでいて心が沸き立つ。
それはたぶん、未来ある若者のサクセスストーリーが、今の自分の身近にないからだろう。若き英雄たちが未来に向かって歩んでいる姿に、心躍らされるようになってしまった。
これが年を取る、ということなのだろうか。
登場人物に対する見方も変わった。かつては、孔明は完全な知略の持ち主だと信じていた。
しかし今回、よく読むと、孔明も細かいミスを何度もしていることに気づかされ、人間だな、と思う。
劉備は優柔不断すぎるし、それに比べて曹操の果断さや、孫権の堅実さが鮮やかに感じられる。
というか、物語なので、細かい点がご都合主義になっていて、史実とはだいぶ違うんだろうな、これ、などということも、わかるようになった。
10代と40代では、同じ本を同じ人間が読んでいても、面白いと思う部分が全然違うし、見方も感想も異なる。
そういう部分は、自分にとっては一つの発見であった。
