日本の中世史には2つの見方がある。東国国家論と権門体制論である。東国国家論は、朝廷と将軍を並立し、東国にもう一つの王権があったという立場。権門体制論は、天皇家、公家、寺社、武家など複数の権門勢力が、相互補完また競合するという立場である。
神奈川県出身の私としては、鎌倉に王権があったと考える東国国家論を贔屓目に見てしまう。『乱と変の日本史』の著者・本郷和人氏は、東国国家論の人なので、その点で本書は私には受け入れやすい。


本書の記述で印象的だったのは、仮に本能寺の変が起きなくても、どのみち織田信長は殺されただろうし、嫡男の信忠が生きていても、秀吉には敵わなかった、と論じている点。つまり、歴史の流れとして織田幕府ができていた可能性はなく、秀吉によるの天下統一は時流だった、というのである。
なるほど、そういう考え方もあるか。その立場なら、本能寺の変に歴史的な意味はあまりない。歴史の流れ、トレンドの中で、起こるべくして起きた事件、という解釈になる。
「今、私たちが生きている時代はどのような時代か。それはあるトレンドの終わりなのか、始まりなのか。はたまたその中央に位置しているのか。これを見極めるには、大きな流れをつかむ必要があります。歴史を学ぶ意味はここにあるのです。」
私たちはいま、どういう大きな流れのなかにいるのだろうか。
凡人すぎて、私には見えない。
乱と変の日本史(本郷和人・祥伝社新書)