かつて「小京都ブーム」というのがありました。1970年代にはじまった国鉄の「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンが火付け役となり、アンノン族を巻き込んで地方の古都が脚光を浴びました。
当時注目を浴びた筆頭格は、萩・津和野です。その後、「小京都」を名乗る都市は全国に広がりました。

ただ、「小京都」というネーミングを作ったのは、国鉄ではありません。
「小京都」の起源をさかのぼると、応仁の乱に行き当たります。応仁の乱を逃れ、京都から地方に下った公家などが、京都を模した都市を造ったのがその始まりとされています。
呉座勇一『
応仁の乱』には、以下のような記述があります。やや長いですが、引用します。
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また一五世紀後半以降、在国するようになった主語・守護代は、国元に立派な館を気づいている。これらの守護館(守護所)の遺跡は発掘調査によって全国各地で見つかっているが、そのほとんどが平地の、一辺が一五〇~二〇〇メートルほどの方形館で、その敷地内には連歌や茶の湯を行う建物「会所」があった(会所の多くは庭園の池に面して建てられた)。主殿・常御殿・遠侍などの配置も判で押したようである。主家斯波氏に対する「下克上」を果たした朝倉氏の居城として知られる越前一乗谷の朝倉氏館も例外ではなく、地域的な特色・個性は見られない。
こうした守護館の構造は、「花の御所」(室町殿)などの将軍邸を模倣したものだった。地方に下ってきた守護や守護代はかつて京都で味わった文化的生活を懐かしみ、分国において華やかな日々を再現しようと試みたのである。中世都市史研究者の小島道裕氏は、このような京都文化の地方における再生産のあり方を「花の御所」体制と呼んでいる。
また公家・歌人の冷泉為広が記した「越後下向日記」によれば、越後守護上杉氏が府中に構えていた館には犬追物を行う馬場や賓客を泊める禅宗寺院が付属していたという。このような構造も、京都の将軍御所を意識したものと考えられる。川の西側に守護館を建てる事例が多いのも、鴨川の西に平安京が築かれたことに学んだのだろう。
山口も周防守護の大内氏によって、京都をモデルにした地方都市として整備された。しばしば「小京都」と呼ばれるこの都市の原型は、大内氏が抱いた京都文化への憧れによって生み出されたのである。
(応仁の乱、呉座勇一、中公新書、P264-265)
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公家だけでなく、京都から引き揚げた守護が、自領に将軍御所を模した館を設け、京都を懐かしんだ、ということです。
例として挙げられているのが、一乗谷、山口、高田、といった、有力守護の居館のあった場所です。こうした街が、「小京都」の原型なのでしょう。
一口に「小京都」といっても、時代によりその姿は変わります。室町時代の京都を模した都市もあれば、安土桃山時代の京都を模した都市もあるでしょう。豊臣政権下では聚楽第こそが京都のシンボルだったでしょうし、この時期に整備された地方都市は、やはり豊臣氏の影響があるようです。
「小京都」に明確な定義があるわけではありませんが、日本各地の「小京都」のうち、どの都市のどの部分が、どの時代の京都を模したのか。探求してみるのも楽しそうです。
