藤子・F・不二雄ミュージアムに行った話

私が子どもの頃、藤子不二雄は藤子不二雄であって、「A」とか「F」とかいう区別はありませんでした。『ドラえもん』の作者は「藤子不二雄」であり、我孫子素雄と藤本弘の合作とされていました。

藤子不二雄がコンビを解消したのは1988年で、そのときに『ドラえもん』が藤本氏の作品であることが明らかにされました。私が大学に入った頃です。私は年齢的にドラえもんを卒業していましたが、藤子不二雄のさまざまな作品が共作ではなく、作者が完全に異なることを知って、少し驚いた記憶があります。

ちなみに、藤子不二雄の主要作品のうち、「F」が『パーマン』『21エモン』『ドラえもん』『キテレツ大百科』『エスパー魔美』、「A」が『忍者ハットリくん』『怪物くん』『プロゴルファー猿』です。『おばけのQ太郎』は合作だそうです。

藤本弘が死去したとき、我孫子は「彼はたいへんな天才だった、僕なんか彼がいたから漫画家になれたようなもの」と言ったそうですが、残した作品群を見ても、やはり藤子不二雄のメイン作家は藤本だったと思います。62歳という若さで亡くなったのは本当に惜しまれます。

などと考えながら、藤子・F・不二雄ミュージアムに入ります。ちょうど、「どらえもん50周年記念展」をやっていました。『ドラえもん』は1969年生まれだそうです。私と同い歳なのですね。初めて知りました。

hujiko3.jpg

日時指定券を買っていましたし、新型コロナでソーシャルディスタンスの時代ですし、ミュージアムの入口はそれほど混雑はしていませんでした。入るまでに5~6分程度並んだ程度です。ただ内部は結構混んでいて、展示室では濃厚接触してもおかしくない、という混み具合でした。

館内には原画が多数展示されていて、興味深いものでしたが、残念ながら、5歳児には、まだ価値がわかりません。そのため、じっくり見ずにスルー。多くの子ども連れと同じように、キッズコーナーでのび太の家の模型を見たり、シアターで映像を見たりしました。

シアターで流れていたのは『ドラえもん誕生』という10分程度のストーリーです。文字通り、ドラえもんの誕生秘話ですが、映像を見ながら、「この話、どこかで読んだなあ」と脳の底の記憶をたどっていました。たぶん、大昔の『コロコロコミック』にでも描かれていたのでしょう。自分としてもたぶん40年ぶりくらいに触れたストーリーだと思うのですが、かすかに覚えていたことに驚きました。

あとで調べてみると、1978年発行『コロコロコミックデラックス ドラえもん・藤子不二雄の世界』初出だそうです。私は9歳で、当時は『コロコロコミック』を読んでいたので辻褄があいます。そうか、9歳の記憶が50歳で呼び覚まされたか。


カフェに行き、「ジャイアンとカツ丼」という謎メニューをいただきました。味はカツ丼なので普通に美味しいです。

hujiko6.jpg

カツの上のノリがジャイアンなのですが、無理してないか?


屋上に出て、「ピー助の池」に浮かぶ恐竜のピー助とドラえもん、のび太の3ショットを撮影。

hujiko1.jpg
hujiko2.jpg

そのほかにも、『おばけのQ太郎』やら、『パーマン』やら、『エスパー魔美』やらのオブジェがあり、懐かしい気持ちにさせられます。我が息子はまだ『ドラえもん』しか知らないわけですが、そのうち『パーマン』を読んだりするのかな?

hujiko4.jpg

ちょっと気持ちにひっかかりを覚えたのは、ここに『忍者ハットリくん』や『怪物くん』の姿がないこと。

私のように、1980年代の少年は、藤子不二雄と言えば『ドラえもん』『忍者ハットリくん』『パーマン』『怪物くん』あたりがセットなので、『パーマン』はいるけれど『ハットリくん』はいない、というのには違和感を覚えます。全部ひっくるめて、「藤子不二雄の作品」じゃなかったのか、と。

まあ、私の思いなんて、どうでもいい話ではあります。コンビを解消したのですから、いろんな事情もあるのでしょう。

が、いつかは、隣に「藤子不二雄A博物館」も建てていただいて、2館セットで永遠のコンビとして復活してほしいな、と思わなくもありません。そんなしょうもないことを考えながら、息子にねだられたタケコプターを買って帰りました。

関連記事

書いている人


かまくら・じゅん
旅人。旅行総合研究所タビリス代表。日本と世界の世界遺産、鉄道、島などを取材中。→詳しいプロフィール

kamakurajunをフォローしましょう

サイト内検索

おすすめ記事

月別アーカイブ

 

ブログ村

全ての記事を表示

アクセスランキング

[ジャンルランキング]
育児
15位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
パパ育児
3位
アクセスランキングを見る>>

訪問者数