佐賀まで行ったので、吉野ヶ里遺跡に寄ってみる。

吉野ヶ里遺跡の発見は、1986年。発見当初に、邪馬台国の遺跡が見つかったんじゃないか、みたいな大報道がされたのを、僕も覚えている。ちょうど高校で日本史とかやっていた時だったしね。結局、邪馬台国ではなかったようだが、弥生時代の環濠集落としては日本一の規模の大発見となった。
最寄り駅は、JR長崎本線の神崎駅と吉野ヶ里公園駅の二つ。その中間あたりの線路沿いに遺跡がある。なら、中間に駅を作ればいいじゃないか、と思うが、両駅は別の市町村に分かれていて、いろんな事情がありそうだ。いずれにせよ、観光客はどちらかの駅から15分くらい歩かないといけない。15分は結構長い。
東門のゲートをくぐり、内部に入る。三世紀頃の遺構が復原されていて、弥生時代の集落がどんなだったか、よく実感できる。とくに、集落をとりまく濠や柵などの要塞的な施設が、重点的に再現されているのは興味深い。

遺跡の構造は、集落全体が、外濠と内濠の二重の濠に囲まれている形になっている。これを環濠集落という。
濠を渡って内部に進むと、木柵に囲まれた郭が見え、物見櫓がそそり立っていいる。

郭のなかには、竪穴住居や高床住居が配置されている。

さらに、北の郭へ歩いていくと、母屋も高らかな三階建ての大木造建築がそびえている。

主祭殿と呼ばれる最重要建築物で、三階は最高司祭者が祭礼を行った場所だそうだ。卑弥呼みたいな人がお祈りを捧げていたのだろう。高さは一六メートルもある。

ほんとに、こんな立派な建物が弥生時代にあったの?と思ってしまうが、三世紀ともなると弥生時代も後期で、古墳時代の入口にあたる。建築技術はそれなりに進歩していたのだろう。
遺跡北端には墳丘墓がある。これは復原ではない。吉野ヶ里歴代の王の墓所と考えられており、内部からは多数の甕棺か出土している。しかも、墳墓内部に入ることができ、保存された出土平面を直接見ることができる。内部を見られる墳丘墓は、世界中を見渡しても、なかなかないんじゃないかと思う。

甕棺からは、骨が出土しており、これらは当時の王と思われる。一九〇〇年の時を経て、王の骨が現代に姿を現しているわけで、とても劇的なことである。こういうのを見ると、仁徳天皇陵とかも発掘したらいろいろ出てきそうだなあ、と思う。

物見櫓は集落の各所にあり、登ると、遺跡全体を見渡せる。外壕の総延長は2.5キロにも及び、囲んでいる範囲は40万平方メートルにもなるそうだ。その範囲に、たくさんの復原建築物が並び、壕の内外には木柵、土塁、逆茂木といった要塞施設が配置されている。これだけ壮大な復原遺跡は、世界を見渡してもなかなかない。予想していた以上に見事な復原遺跡であった。
現在では、吉野ヶ里遺跡は、弥生時代にあった「クニ」の一つだと考えられている。こうした「クニ」は九州北部に複数存在し、記録に残っているものとしては末廬国、伊都国などがある。吉野ヶ里は、そうした記録に残っているクニとは違うようだが、これらのクニと争いながら、勢力を維持していたのだろう。
帰りは、西口から、神崎駅まで歩いて帰った。吉野ヶ里公園駅より、じゃっかん遠く感じた。そのせいか、神崎駅は閑散としていて、観光客などは誰もいなかった。