小島剛一 (旅行人)
1991年に書かれた「
トルコのもう一つの顔 (中公新書)
」の続編。天才的言語学者の著者が、再びトルコで言語学調査を行い、再び国外追放処分を受けるまでのストーリーである。最近の「
旅行人
」に掲載された原稿をベースに書き下ろしたようだ。前著以上の力作である。
トルコ政府は長い間、みずからを「単一言語の国」と規定していた。もちろん、民族が入り乱れる小アジア地域で、それはありえない。なのに、無理矢理「単一言語」と規定することで、政治的にも学問的にも無理が生じてきた。当然、トルコ国内の学者で少数言語を研究するまともな研究者などいない。筆者は、外国からやってきて、それを研究しよういう希有な人物であった。
トルコ政府は、当然それを嫌う。筆者はへんてこな諜報員につきまとわれたり、至る所で横柄な官憲の尋問を受ける。筆者はそうした横柄な者どもを、つぎつぎと論破していく。このあたりは、ノンフィクションながら、水戸黄門的な爽快感がある。そして、トルコという国家権力の強大な国で、研究者が自由に研究することの難しさを浮き彫りにしている。国家が研究に介入することは、結局真実の探求を妨げることになる。こういう国は、科学の進歩に自ずから限界が生じるだろう。そしてそれは、トルコだけの問題ではあるまい。科学の進歩にとって、民主的な政治がいかに重要かを、本書は示している。
そして、言語学という学問の奥深さや、「言語」そのものについても深く考えさせられる。たとえば津軽弁と鹿児島弁は「日本語」だが、互いの意思疎通は不可能だろう。また、もし仮に、青森が独立国だったら、津軽弁は日本語とは呼ばれなかっただろう。その意味で、言語と方言の境目はない。「津軽弁は日本語に含まれる」という概念そのものがおかしいことになる。
さて、トルコは日本人に対して親近感を持つ人が多い国である。簡単に表現すれば「親日的」だ。そして、トルコは、イスラム諸国では西洋的民主主義国家に最も近い国というイメージを私たちは持っていると思う。
が、この本を読むと、トルコ人は我々とはずいぶん違う考え方をもち、違う行動を取る人たちだということがわかる。強大な国家権力のもと、横柄な官憲、跋扈する諜報機関員。民間人にしても、日本人には到底理解できないような「非常識」な態度を示す困った人たちが次々と現れる。
トルコに対する見方が変わる、という点では、前著「トルコのもう一つの顔」と同様であろう。内容の衝撃は前著の方が強かったし、この本も前著を先に読んでから手にした方がいいと思う。が、トルコを旅する人には強くお勧めしたい一冊で、「待ち望まれた続編」といえる。
それにしても、この著者の小島剛一氏は、いったいどんな人なのだろうか。経歴はほとんど明かされてないのでよくわからない。[Goichi Kojima]で研究論文も探したが、ウェブ上では見当たらない。ラズ語という言語のウェブサイトに行き当たるだけである。
このような物凄い人が、トルコの本を2冊書いただけでもし終わってしまうのならば、これほどもったいないことはない。大げさにいえば、学問的損失である。
小島氏の書いた、言語学の本をぜひ読みたい。小島先生、ぜひ一般読者向けの言語学の本を執筆して下さい。
トルコのもう一つの顔 (中公新書)
漂流するトルコ―続「トルコのもう一つの顔」