山口誠著 (ちくま新書)
戦後日本の若者の海外旅行史をまとめた本。このようなテーマの社会史は初めて読んだので、興味深かった。
おおまかにいうと、戦前から戦後直後までは、海外に行くには「留学」「研修」などの「大義名分」が必要だった。60年代には、それを気にせずに、格安で世界を「歩く」旅を始めた人が少数ながら出てきた。その源流は小田実だという。
70年代に入ると、格安航空券が大学生向けに普及し始め、「旅することが目的の旅」が行われる。「地球の歩き方」の原点ともいえるDSTが発足するのもこのころだ。バックパッカーの貧乏旅行の方法がヨーロッパにて開発される。これが、第一世代のバックパッカーを生む。
80年代に入ると、「ここではないどこかへ」という志向の旅が増える。「自分探し」「リアクション」がテーマになり、旅先もヨーロッパよりアジアが主流になる。これがバックパッカーの第二世代。源流は沢木耕太郎だという。
90年代に入ると、「海外で日本を生きる」という旅行者が増え始める。自分のなかに「日本人」を探す世代だという。これが第三世代のバックパッカーだ。象徴するのが蔵前仁一である。
そして猿岩石によりバックパッカーはバブルを迎え、それがはじけたのが00年代。バックパッカーは少なくなり、一部は「外こもり」する。「海外で何もしない旅行者」たちである。
こうしたバックパッカーの世代論は初めて目にするもので、新鮮であった。この分類によると、僕は主に第三世代のバックパッカーの時代に旅をしたが、分類的には第二世代に近い。こういう類型化は「学問的お遊び」であり、あまり真剣に考えても仕方がないが、類型化することで見えてくるものはあるだろう。
00年代に入るとスケルトンツアーが全盛を迎え、それがバックパッカー旅行にとって替わった、と筆者は考えているようだ。スケルトンツアーとは、目的地までの航空券とホテルだけが含まれるパッケージツアーである。本書によると、その発祥はプラザ合意後で、バブルの頃に成長した。最近はスケルトンツアーが安すぎて、相対的にバックパック旅行が「割高で、容易に手を出しにくいものにみえてしまう」と分析している。現在の豊かとはいえない若者世代には、バックパック旅行はツアーよりも高い「贅沢な海外旅行」に見えるのかもしれない。
そしてこれは正確な分析であろう。航空券だけ購入して現地で安宿を泊まり歩く旅は、スケルトンツアーに比べると高価になった。僕は、これが旅をいびつにしていると考えている。スケルトンツアーのある都市に関しては安く旅ができるが、それ以外の土地に行くにはずいぶん高くなる。たとえば、ロサンゼルスには7万円もあれば行けるが、飛行機を一つ乗り継いで米中部の都市にでも行こうとするならば、途端に15万から20万円もかかる。これでは、中部まで足を伸ばす客は増えないだろう。結果的に、スケルトンツアー全盛の香港とかバンコクとかニューヨークとかの特定の都市ばかりが旅先になってしまう。「その先」へ行くには倍のお金が必要となる。新しい若いバックパッカーが増えないも仕方がない。
スケルトンツアーの普及は、ガイドブックにも影響を及ぼした。「歩く旅」のニーズが減った結果、「地球の歩き方」も「歩く旅」を目的とした内容から、「スケルトンツアー」に対応した現地のグルメ情報などの滞在型の内容が増えたのである。本書によれば、その変貌は80年代後半に始まった、ということらしい。
このあたりの事情も理解はしていたが、こうしてきれいに整理されて述べられると腑に落ちる。
以前にレビューした「
サバイバル時代の海外旅行術
」(高城剛)では、海外旅行者が減った原因を日本のガイドブックの貧困さに押しつけていたが、本書では、海外旅行のスタイルの変化とガイドブックの変化がパラレルであることが示されている。僕は本書の考察が妥当であると考える。
本書は、いろいろと批判もあろうし、間違いの指摘もあるようだ。取材もしていないらしい。蔵前氏と「
旅行人
」については数ページを割いて詳述されているが、蔵前氏は取材を受けてないことを自身のブログで明かしている。つまり、いろんな文献をあたって、それをつなぎ合わせて書いた、ということのようだ。大学の研究論文ではそれでいいのかも知れないが、一般書としてはどうなのだろう、と思わないでもない。勝手に紹介される側の気分は、必ずしもいいものではないだろう。
とはいえ、往年のバックパッカー世代の人が読めば、それなりに興味深い本に仕上がっていると思う。
ニッポンの海外旅行 若者と観光メディアの50年史 (ちくま新書)