「虚構の劇団」の芝居「天使は瞳を閉じて」を見に行った。この芝居は第三舞台版を1988年に見て以来だから、23年ぶりである。

23年前に見た芝居などほとんど覚えていないと思っていたけれど、見はじめたらみるみる思い出した。やっぱり、この脚本は名作なのだろう。名作は、どんなに日時が過ぎても記憶の奥底に残っているものだ。
冒頭のシーンは1988年版とは違っていて、福島原発事故を題材にしたものになっていた。1988年版「天使を瞳を閉じて」も原発事故を想定した脚本だったが、その時代設定は「未来」だったはずだ。それが、今回の脚本では「同時並行または未来」に変えられている。23年前に予測した恐ろしい未来が、いま現実になってしまったことを改めて思い知らされる。
とはいうものの、正直言って、2011年版の冒頭シーンの脚本は上手ではなかった。現実を追いかけすぎたことで、かえって陳腐な脚本になってしまった気がする。役者の動きにもスピード感がなく、ややぎこちなかった。
ちなみに、「天使は瞳を閉じて1988年版」の単行本を確認してみると、冒頭のストーリーは、「見えない壁」によって隔離された男女が、そこから脱出しようとしているときに、外部で原子力発電所の事故が起こり、世界が終わってしまった、という展開だった。2011年版では、原発事故の放射能汚染地域に入った人が「透明な壁」によって閉じこめられるが、皮肉にもそのおかげで、その後の核戦争や原発事故などによって起きた外部の放射能汚染から守られた、という設定になっていた。正直、冒頭(第1章)の脚本は1988年版のほうがよい。今回もそのままでよかったのに、と思う。
生き残った男女がそこで街をつくる、というその後の流れは同じである。元のストーリーに戻ってからは、物語がスムーズに流れ始め、役者の動きもよくなった。
この脚本は、反核という底流のテーマの上に、メディアや芸能界に対する風刺や問題意識を乗せながら、愛情、憎悪、嫉妬、喪失といった人間関係を描いていく。終わってみればシンプルなストーリーなのだが、見ている途中は先の展開が読みにくく、惹き込まれるような物語構成である。
ただ、23年前に見たときには気づかなかったことだが、この舞台はちょっと「難しい」気もした。
まず、役者の表情や仕草で表現される内容が多いことだ。セリフではなく仕草で心理描写がなされている。これは役者が巧く演じればすばらしい作品になるが、役者が下手だと平凡以下の舞台になりやすい。どんな芝居も多かれ少なかれそういうものだが、この脚本はとくにそのおそれがあると思う。だから、学生の素人演劇などには向かないし、演出家がしっかり「ダメ出し」しないといい舞台にならないだろう。その意味で難しい芝居だけれど、「虚構の劇団」の役者はよく演じていたと思う。
そして、ストーリーに組み込まれていながら、演じられない事柄が多いのも、芝居を難しくしているポイントだと思う。具体的には「2階」についてである。「2階」で何が行われているかは、舞台では一切演じられない。したがって、観客が想像するしかないのだが、どう想像するかによって、物語の受け止め方は微妙に違ってくる。つまり、観客も試されてしまう芝居なのかもしれない。
いっぽう、この年になって芝居を見ると、ストーリーの残念な点も感じてしまう。
とくに、高橋奈津季演じるナオのトシオに対する想いが、後半でどこかに消えてしまっているのは気になった。ナオの後半での存在感も失われていて、役柄がやや中途半端に思われた。
考えさせれたのは、「メディア」の位置づけだろうか。この物語では、「テレビ」が非常に大きな意味を持っている。市民への告知やPRはすべてテレビを通じて行われているし、「テレビ局員」に採用を願う「クリエイター」の悲哀も描かれている。
初演の1988年ころ、テレビ局は絶頂期を迎えようとしていて、その影響力は絶大だったし、「業界人」はまぶしかったものだ。だからこそこういう脚本ができたのだろうけれど、2011年のテレビ局に、かつての輝きはない。今でもテレビはメディアの中心だし、テレビ局員はかろうじて憧れの存在ではある。しかし、当時のようなオンリーワンではない。
今もし同じような脚本を作るのなら、ツイッターなどが登場することだろう。しかし、この脚本では登場しない。昔の脚本だからそれはいいのだが、セリフがアップデートされたなかで「ソーシャルメディア」なんて言葉が中途半端に入っていたので、少し気になった。ソーシャルメディアが存在するという前提なら、この脚本は成立しない。徹頭徹尾無視すればよかったと思う。
さらにいえば、もし20年数年後にこの脚本で芝居を作るとして、「テレビ局員」のサブロー役は、そのときも「テレビ局員」のままで違和感なくいられるだろうか、とも考えさせられた。たった23年で、世の中は大きく変わった。今後の23年は、なおさらだろう。
印象に残った役者は電通太郎役の渡辺芳博。表情がまさに役者!という感じで記憶に焼き付いた。ケイを演じる大久保綾乃も動きがよい。あんな細いのにすごいなあ。大久保綾乃は、演じているときの表情と、終幕時の「素」の表情があまりに違って驚いた。ずっと「表情」を作っていたわけですね。すばらしい。
ヒロイン役の小野川晶も目をひいた。かつては筒井真理子が演じていた役で、筒井とはずいぶんイメージが違うけれど、違和感もなく、自分の役柄を作り出せていたと思う。コケティッシュな顔立ちで、ファンも多かろう。演技はまだこれからという部分もあったが、かえって応援したくなる雰囲気がある。
そして、なによりマスター役の大高洋夫の存在感はすばらしかった。芝居全体に漂う安定感は、やはりこの人のおかげだろう。
最後に、池袋シアターグリーンは、快適に観劇できるいい小屋だった。
ただ、舞台は小さい。天使役が舞台最前部でナレーションしていたが、ちょっと見ていて窮屈だった。第三舞台版では、天使役は、高い壇の上に立っていたような気がするが、僕の記憶違いだろうか。