
チェスキー・クロムロフは、いまやチェコでも有数の観光地になりました。その理由は、中世の古い街並みが、あまり破壊されずに残されているからです。
「チェスキー」というのは「チェコの」あるいは「ボヘミアの」という意味で、クロムロフが土地の名前です。日本でたとえれば「安房鴨川」「備中高梁」など「旧国名」を上に冠した地名と考えればよいでしょう。
チェスキークロムロフは、歴史的には神聖ローマ帝国の有力貴族の領地でした。神聖ローマ帝国はドイツ系の国で、住民もドイツ系の多いドイツ圏の土地です。神聖ローマ帝国時代、土地の名前は、ドイツ語で「クルマウ」と呼ばれてきました。チェスキー・クロムロフという名称に変わったのは、神聖ローマ帝国を継いだオーストリア=ハンガリー帝国崩壊後のことです。
産業革命以後、主要街道や鉄道の主要幹線からも外れたこともあり、発展から取り残されてきました。第二次大戦後、チェコスロバキアが独立してからは、多数派だったドイツ系住民が追放され、ほとんど「死の街」に近い状態になっていたようです。チェコの中でも国境に近い周縁部という地理的条件のうえに、鉄のカーテンのすぐ近くでもあり、観光地として注目されることもありませんでした。
ところが、1989年に共産党支配が終わると、街の景観的価値が再認識され、急速に修復が進みます。1992年には世界遺産にも指定されました。ドイツやオーストリアなどからの観光客が殺到し、急激に有名観光地となっていくのです。いまや、チェコ国内ではプラハに次ぐ観光地といえる地位となり、日本からのチェコ向け団体ツアーも、ほとんどがチェスキー・クロムロフを経由するほどです。
ただ、チェスキー・クロムロフは不思議な違和感のある街です。それについては、次項で書きます。